知られざる地球の不思議さと手つかずの大自然を肌で感じる究極のエコツアー。地球の鼓動が聞こえる大地「南極」、
イヌイットの住民達、野生動物との出会いがある「北極」。何かを感じさせてくれる極地旅行。
個人旅行の旅だからこそ、他では味わえない感動が!

2010年1月、オルロパ号で南極半島&サウスシェットランド諸島クルーズへ参加された加藤さんの体験談・第2弾!


前回、当社アンケートにお答えいただいた体験談を掲載させていただきました。今回は、南極旅行への思いや旅での出会い、感動秘話など、リアルな体験を加藤さん自らの言葉でご紹介せていただきます。

→加藤さん体験談・第1段(アンケート回答)はこちらから

 


旅の動機は「南極の自然のすばらしさ」と「新しい自分の発見」

加藤さん0215.jpg


(写真)南極半島クルーズのハイライト、パラダイス湾にて

南極旅行を扱っている旅行会社(トライウエルインターナショナル)があることは、1年ほど前のテレビ放送で知っていた。また、特に南極で温泉があることもその時に知った。南極の自然のすばらしさは、その時から私の心を捉えていた。しかし、今回の私の動機はそれだけではなかった。

旅行会社の説明では、今回はガイドがつかないという。また、アルゼンチンの最南端にあるウスワイアの町(南極へのオルロバ号に乗船するところ)までは各自で行くようにとのことであった。大阪空港を入れると6回の飛行機の乗り継ぎがあり、荷物を持っての移動を考えると少し冒険旅行のように思われた。

仲間を誘ったがダメであった。そこで一人旅をしてみようと考えた。言葉もろくに通じないであろう世界に飛び込んで、そこでの自分自身の「人間関係づくり」に挑戦してみようと思った。今の自分のカウンセリングの腕を磨くためにも、あるいは新しい自分を発見するためにも、この南極でのカウンセリング・ワークションプ(私の命名ですが)しかないと思ったのであった。

また、自分自身の体力の問題もあった。ドレーク海峡という世界で最も荒れる海を航海しないと南極へは行けないという。また、約30,000kmの行程を移動しなければならないという。このようなことを考えると、自分としてはある程度体力に自信のある時がチャンスと思ったのである。

地球の裏側、アルゼンチン・ウスクワイアまで3日間


まだ正月気分が抜けきらない1月5日、最寄のJR土山に5:25分発の電車でJR三宮まで。そこから大阪空港までのリムジンバスに乗車。大阪空港から東京の成田空港まで飛ぶ。成田からUAの機内で1泊しながら、朝(日本では1月6日だが、現地では1月5日)ロサンゼルスまで12時間ほどの旅であった。そこから、UAでワシントンに飛んだ。

ロサンゼルスからワシントンへ向かう飛行機の中からは、ロサンゼルスのコロラド川によって造られたコロラド渓谷、そして人を寄せ付けない砂漠がどこまでも続く荒涼たる景観が眺められた。ワシントンには夜に着いた。そのため、ワシントンの町並みを上空から見ることは出来なかった。

すぐその夜にアルゼンチン航空に乗り換え、ワシントンからブエノスアイレスへ飛んだ。ここでも飛行機の中で1泊し、ブエノスアイレスの国際空港に昼前に着いた。すぐハイヤーで国内線へ移動した。ハイヤーは時速130キロのスピードで走り、約1時間ほどで国内線の空港に着いた。その空港は港の近くにあった。海の色は濁った赤茶けた色で印象的であった。

このブエノスアイレスの国内空港からウスワイアまで、最後の飛行機であった。搭乗のためのチェックが厳しく、フライトが1時間半ほど遅れた。そのためウスワイアの雨に煙るホテルに着いたのは、11:30ごろであった。明日はいよいよオルロバ号への乗船である。

ドキッ!とした体験


<その1>ウスワアのレストランでドキッ!

ウスワイアのホテルで一夜をすごし、9:00チェックアウト。オルロバ号への輸送はバスが近くの公園まで来てくれ、そこに15:30に集合。それまでは自由行動ということであった。そこで、ウスワイアの町を散策することにした。

この町は、アルゼンチンと海で隔てられた最南端の島であり、そのため昔は流刑者の島だったとのこと。昼近くなったので、レストランで一人食事をとることにした。

疲れのためかワインが欲しくなり、レッドワインを注文した。バーテンダーがグラスワインになみなみと注いでくれた。うれしくなり一気に飲み干した。食事が終わる頃には、体がほてり眠たくなってきた。そこで、そのレストランの客待ちのフロアーの長椅子で少し仮眠をとることにした。

しかし、ワインの酔いですっかり寝入ってしまったらしい。気がつくと集合時間の15:30だった。慌てふためきバスの集合場所まで駆けた。すごくドキッとするとともに、一人旅であるとのことを再認識した瞬間であった。

南極体験談 加藤さん イメージ.jpg

<その2>緊急避難訓練でドキッ!

オルロバ号に乗り、航海が始まった。と、その時けたたましくベルの音が鳴り渡った。緊急避難訓練であった。船につられ設置されている救命ボートまで、ライフジャケットをつけ、長靴を履き、いっせいに自分の指定された救命ボートまで駆け上がるのであった。相棒のアメリカ人は、アッという間に行ってしまった。自分はどこへ行くのか、さっぱり分からなかった。

駆け上がりみんなが集合している場所に行った。しかし、そこは一班の集まるところであった。自分は3班とかであった。どのように班分けをしたのかが分からなかった。後で聞くと、乗船したときに各自がサインしたが、その時、どの用紙にサインしたのかということで班分けがなされていたようであった。このときも一瞬ドキッとさせられた瞬間であった。

<その3>ワシントンD.Cの入国審査でドキッ!
 
帰路でブエノスアイレスからワシントンD.Cに飛び、入国手続きを受けることになった。機内では、トランシットと告げ、ステュアートからアンケート用紙をもらった。機内で書き、パスポートの提示とともにそれらの用紙を出し、無事通過。次のゲートを通過しようとしたら、もう一枚のアンケート用紙がないから通れないと告げられた。どんな用紙か聞くと紫色の用紙であった。どこにあるのか尋ねても、あちらと指差すばかり。その指差す方向に行くと、入国管理官がストップという。

飛行機の時間が迫っているし、トランクは預けられないし、「私どうしましょう」という状態であった。このときもドキッとした瞬間であった。

南極体験談 加藤さん02.jpg

だんだんと閉鎖的になっていく・・・

オルロバ号にのり、少し経ってスタッフがウォーターボトルの束を何本も食堂に入れようとしていた。手伝いましょうか?というと、ありがとうといわれ、さっそく手伝いを始めることになった。その作業が済んで、いよいよディナーの時間となった。食堂に行くとスタッフのリーダー(ドイツ人)が「ジャパニーズ・加藤、サンキュー」といい、みんなの前で加藤はこんなことをしてくれたと紹介し、全員が拍手をしてくれた。このように滑り出しは順調であった。

しかし、多くの乗客から話しかけられるが、話し方が早いので、鳩が豆鉄砲をくったかのようなチンプンカンプンの時間が過ぎていった。その時は、不登校の生徒の心理、うつ傾向の患者さんの心理と同じ状態になっていった。だんだんとパッセンジャのすべてと話すことが怖くなっていった。特に、オルロバ号のウェイトレスの何人かが、変な日本人といって避けているのではないかとまで思うようになってしまい、食事も本当に進まなくなってしまった。

すごく感動した出来事

南極体験談 加藤さん ローラさんと.jpg

(写真) 船内スタッフのローラさんと

<その1>スタッフの心遣い 

私が、食事がすすまずキャビンに早く戻り一人で寝ていると、それをすばやく見抜き、そっと気遣って訪ねて来てくれるローラ(スタッフのリーダーの一人)。彼女の心遣いにすごく感動した。


<その2>旅の仲間との共感

出航後、2日目の船内放送でアロバトレス(羽を広げると3メートル近くあるという水鳥の一種)が飛んでいると伝えられると、多くの参加者が甲板へ。鯨がいると知らされるといっせいに同じような行動が起こる。私もだんだんとこのような小さなことにも興味を示し、共に動けるようになっていく。する、その場にいる人たちとの共感が生まれ、その人との関係がよくなっていくという体験が多くなっていった。


<その3>船酔いの対処法を発見

ドレーク海峡を通過し、高波を切って南下する船内では、多くの人が船酔いに悩まされていった。そこで、私は、この船酔いをしない方法を自分の体を通して見つけてみようと考えた。自分の呼吸を波の波動にあわせることにした。例えば、船が左に揺れるときに息を吸い、右に揺れるときに息を吐きながら力を抜くようにしたのである。すると、だんだんと「ゆりかご」で揺ってもらっているように感じられ、その揺れを楽しめるようによっていった。このこともすごく感動したことであった。

“ 地獄で仏 ” という体験

南極体験談 加藤さん 鯨の骨.jpg

(写真) ウクライナ・ベルナツキー基地近くにあった鯨の骨

<その1>日本語を話せる人が!
 
緊急非難訓練が終わり解散となった時に、日本語で話しかけてくる人がいた。驚いてその人を見ると、にこやかな笑みを浮かべた20代の好青年でした。そして、彼に寄り添うように立っているチャーミングな女性が目に飛び込んできました。私は、とっさに日本人ですか?」と英語で聞いてしまいました。日本人であることを確認すると、矢継ぎ早に、「どこから来られたか?」とか、「あなたたちの関係は?」とプライベートなことまで聞いていました。それだけ興奮する出来事だったのです。しかし、彼から、シドニーに住んでいること、ニュージーランドで結婚式を挙げ、新婚旅行でこの船に乗っていることを聞くと、少し距離を置かなければと、遠慮がちになる自分があった。二人のキャビンナンバーを聞いてその場をわかれることにした。

それから2日間ほどは少し距離をとっていたが、船丙で再び顔を合わせた際、彼等は船酔いでごく疲れているようだった。そこで、二人のキャビンに行き自彊道(主に他彊動でしたが)をしてあげら、、すごく喜ばれた。それから、ギブ・アンド・テイクの関係が生まれ、三人一緒に食事に行くことが多くなり、他の乗客から「二人のお父さんですか?」と聞かれるぐらいになった。

しかし、再び問題が発生。彼は英語がペラペラで、ネーティブな人ともよくしゃべり、意気投合するが、私は何を言っているのかが分からず、蚊帳の外という感じになってきた。そこで、私の質問を外国の人に聞いてみてくださいとお願いし、通訳をしてもらうようになった。すると、詳しい内容が理解できるようになり、多くの方と深い内容で交流できるようになった。ちなみに帰国後、彼らご夫婦から電話をいただいたりしている。


<その2>途方に暮れる私を助けてくれた人

帰りのワシントンから日本の成田に飛ぶ時、大変なミスに気がついた。ブエノスアイレスからワシントン行きのアルゼンチン航空の機内で、「私はトランジットです」といってもらった申告書の中に「カスタム・デクラレーション」の用紙がなかったのだ。入国手続きを済ませ、トランクを持って次ぎのゲートに行った時に、このカードの提出を要求され、通過を許されなかった。そこで、戻ってこの紙がどこにあるかを探そうとしたが、今通過してきたゲートに阻まれ、途方にくれる始末。

その時、私の前を通る拾幅のいい黒人の検査官を見つけ、「私を助けてください」と声をかけた。すると彼は、立ち止まり私の話を聞いてくれ、阻止ざれたゲートまでついてきてくれた。そして係官に何故ダメかを聞き、その用紙を取ってきてくれ、審査でOKになるように記入してくれた。

私は、再度その用紙にサインをして、検査官のところ行きハンを押してもらおうとしたが、検査官は、なぜこの用紙だけなのかといって押してくれない。すると、先ほどの黒人の彼が横から「紛失したらしい」といい、彼にウインクをしてOKをもらってくれた。

私がすごくオーバーに感謝を表すと、彼はポケットから名刺をだし、私にくれた。それを見ると、彼は、空手8段、テコンドウ師範で、ワシントンの支部長だった。彼と別れて2時間後、成田への搭乗が開始されたとき、彼は私を見送りにゲートまで来てくれた。

“ 本当に必要な時に必要な人と出会った旅だった ” と、何回も心の中でつぶやいている自分があった。

神様! 南極! ありがとう。             <完>

****** 加藤さん、素晴らしい体験談をありがとうございました ******


コース紹介


注)すべてのコースは、海外主催会社が催行する旅行ツアーとなります。お申込みにあたり、自己責任の上でのご参加となりますことご承知おきください。