知られざる地球の不思議さと手つかずの大自然を肌で感じる究極のエコツアー。地球の鼓動が聞こえる大地「南極」、
イヌイットの住民達、野生動物との出会いがある「北極」。何かを感じさせてくれる極地旅行。
個人旅行の旅だからこそ、他では味わえない感動が!

宗谷の出帆も間近なある日、文部省の作業室の電話のベルが鳴り響いた。
受話器を取り上げた私の耳に懐かしい西堀副隊長(越冬するまでこの肩書きだった)の声だ。アメリカからである。
「テッチャンか? 大至急大型冷凍庫を用意してくれ!」
かなりエキサイトした話し様である。
どうしたのですか? と聴けば、西堀さんの話はこうだ。
アメリカで越冬用品のリストを調べていたら大型の冷凍庫があった。
南極で冷凍庫? と思い問い合わせて見ると逆に、「君たちは冷凍食品を持っていかないのかね?」と聴かれた。 


よく聴いてみると南極といえども夏期には海岸地帯は0℃以上になり、氷はどんどん溶ける。冷凍食品なんか露天に出しておけばたちどころに溶けてくる、というのだ。
聴けばもっともな話だ。だが日本隊は一台も冷凍庫は準備していない。冷凍食品はかなり持ち込んである。宗谷の冷凍倉庫にいれてあるのだ。
「そんなの冷凍食品を捨てるようなものだ」、とアメリカで笑われた西堀さんが、あわてて電話してきたのだ。


早速 立見さんなどを中心に緊急会議だ。
集められた人たちは食料委員会・機械委員会・宗谷関係者・冷凍食品関係者・予算関係者・越冬準備関係者 などなど。冷凍庫の必要は直ちに了解された。
あまり越冬を正当化していなかったせいもあり、越冬隊用冷凍庫には気づかずじまいだった。
「そんな事じゃないかなーと思ったんですが、偉い先生方がおやりになっているので口出しするのも悪いとおっもて…」と日本冷凍㈱の担当者はいう。
予算は無い。全部割り当ててしまったあとだ。それよりも船はすでに全荷物の積み込みを設計通りに終了。余分な積み込みスペースは無い。
困り果てた場に名案をだしたのは石丸(だったけ)さんだった。私と同年輩と覚えている。農林省のお役人で食料関係の日本の権威であり、かつ登山家だ。
彼の発案は、冷凍庫で無くて冷凍機とドアだけ持っていく。現地で雪洞を掘ってドアをつける。電気を使って冷凍機を運転し内部をひやす、こうゆうのだ。
これには全員賛成。それしか無いと言う。
早速 冷凍機メーカーとドア・メーカーに寄附の依頼がとぶ。
その結果、宗谷の後甲板にキャンバスに包まれ、横たえられていた得体しれない荷物に気づいた隊員もいたはず。


ところが 話はここで終わった訳ではない。
宗谷接岸・荷揚げ・越冬準備がどんどん進行中、宗谷の冷凍庫から大量の冷凍食品が取り出され、海氷の上に投げ出された。お天気が良いと陽が当たる。 
「冷凍庫は?」「まだ出来ていない」「すぐ作れ!!」
愛称「トンコ」こと佐伯隊員や私が雪洞ほりに駆けめぐる。
ところが雪洞を堀るに十分な積雪が無い。
「なるべく雪氷をさけて岩石の上に基地を作れ」と言う指示の元に設定された昭和基地だ。
十分な積雪が無いのがあたりまえ。何処を探しても吹き溜まりすら十分な大きさのが無い。
仕方なく海氷と島との間に出来たタイダル・クラックを覗いてみた。大きな割れ目だ。ザイルを使って中に降りたトンコが叫ぶ。「ここなら横穴が掘れるぞ」と。 
といった事で、そこに横穴が掘られ、ドアを付け、冷凍機を回し、冷凍食品を運び込んで、やれやれこれで一安心。石丸案に最敬礼だ。

南極調査隊・第一次越冬隊

ところが その後にまた一つの話がある。

11人の越冬が始まってから調理の砂田隊員が時々雪洞冷凍庫を訪れ、鳥の冷凍を出してきてはご馳走してくれていた。
5月のある朝、砂田隊員が「大変だ!たいへんだ!」と。
「どうした」と聴くと、かれは声を震わせて「冷凍庫に海水がはいっている」、と言うのだ。
全員で見に行く。なるほど、海水面が上昇している。クラックや雪洞の様子は変わらない。海水面の上昇だ。
そんなことあたりまえだ。月の位置が変わると海水面が上下するなんて、科学の初歩的知識である。アルマナックによると南極のその辺は上下差2メートルくらいあるとわっかた。雪洞を堀り、冷凍庫を作っている時は誰もそんなことに無関心だったのだ。
またしても日本一流の科学者がこの失態だ。 

写真)建設中の犬小屋


あわてて冷凍食品全部を氷の上にほりだした。幸いすでに外は氷点下だ。もう外に積んでおいても、まず大丈夫だ。ただし一度海水にしたった冷凍チキンは、なるべく早く処理しなければならないと、毎日鳥料理がでた。

 

菊池 徹(1999.01.20)


コース紹介


注)すべてのコースは、海外主催会社が催行する旅行ツアーとなります。お申込みにあたり、自己責任の上でのご参加となりますことご承知おきください。