知られざる地球の不思議さと手つかずの大自然を肌で感じる究極のエコツアー。地球の鼓動が聞こえる大地「南極」、
イヌイットの住民達、野生動物との出会いがある「北極」。何かを感じさせてくれる極地旅行。
個人旅行の旅だからこそ、他では味わえない感動が!

吉田栄夫さんと南極 Q&A

日本極地研究振興会理事長吉田栄夫さん

吉田栄夫さんは1957年の第二次越冬隊員に選ばれたのをきっかけに第二十二次では隊長として越冬隊を率いるなど、東京都立大学、お茶の水女子大学、広島大学、国立極地研究所などに在職しながら、度重なる南極調査を繰り返しておられます。現在、財団法人日本極地研究振興会の理事長を務め、理学博士の立場から国際的な活動にも従事するなど、極地研究における日本の第一人者です。

今回はそんな南極の専門家・吉田さんにインタビューし、南極とはどんな所なのか、さらには南極調査の役割などを解りやすく語っていただきました。 ちなみに吉田さんの最初の南極行きとなった第二次越冬隊は、いま話題のドラマ『南極大陸』のベースとなったストーリーと深い関わりがありますので、その点も踏まえて読んでいただければ、より一層興味を持っていただけると思います。

Q1. 南極にかかわるお仕事をされたきっかけは何だったのでしょうか?

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国が国家事業として“南極観測をやろう”と決定したのは1955年11月です。東京大学理学部地理学教室では、そのプロジェクトのために南極の準備をしていたんです。その頃、私は東京大学大学院修士コース2年生でした。当時助教授だった吉川虎雄(よしかわ・とらお)先生から「あなた南極に行ってみる気はありませんか?」と声をかけられて「それは是非、行かせてください」と答えたのが、南極に関わるきっかけです。

大学では自然地理学を勉強しており、火山を研究していたんです。南極に行くことになって火山から氷河に転向したんですね。

もうひとつのきっかけとしては、南極を国家事業でやろうと決まる前の年、国土地理院にいた私の先輩が、大学の要請で南アルプスの高い山地の林地崩壊の研究をしていたんです。そこへ主任教授が私を送りこんだんです。南アルプスは氷河地形で、ちょうどそこで勉強していたので、火山からの転向もあまり抵抗ありませんでした。

もともと南極プロジェクトはIGY(国際地球観測年)で、3年で終わる予定だったんです。だからそんなに長く続くとは思っていなかったですね。ところがIGYが終わった1959年12月南極条約が結ばれ、また、IGC(国際地球観測協力年)というものも設けられて、IGYで南極観測を行った他の11カ国は観測を続けることになり、日本もそれに応じて続けることになったんです。

日本は第二次越冬が本観測という位置づけでした。私は地理部門の調査と犬ぞりを両方ひとりで担当する、ということで行ったんですが、越冬隊を成立させることに失敗、誰も越冬できず結果的に犬を残して帰ることになりました。

もともと犬置いてくるはずじゃなかった。もう12回小型飛行機が飛べれば、7人が越冬して犬を使うことができた。それでも母犬と子犬たちは、第1次越冬隊11人と一緒に小型機で運び、船に乗せて帰ってきたんです。その子犬たちの中に、私が第四次越冬隊で行ったときに連れて行った犬がいるんですよ。

ちなみに第一次隊には猫もおり、無事に一年間を南極で過ごして帰ってきました。国立極地研究所「南極・北極科学館」(東京都立川市)にはこの猫の話を題材にした絵本『こねこのタケシ』がありますよ(笑)。

Q2. 今のお仕事についてお聞かせください。

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南極大陸地図(昭和基地)

私が理事長を務める財団法人日本極地研究振興会の役割のひとつに【研究に対する助成】があります。研究者や研究機関への助成ができることです。
それに加えて、今年で3年目になりますが、国立極地研究所のプロジェクトとして、小中高の先生を毎年2名南極に派遣し、南極からテレビ授業をやっていますが、その経費の助成もしています。
当財団から助成を受けて南極に行った方には報告書を出してもらい、財団が発行している雑誌「極地」に掲載しています。 (写真:南極大陸の地図)

もうひとつは、国立極地研究所「南極・北極科学館」内にあるショップの運営も手掛けています。そこで販売している絵葉書やカレンダー、地図などの製作にも携わっているんですよ。

Q3.  南極越冬隊長として一番気にかけていたことは何だったのでしょうか?

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安全問題です。皆を「無事に日本に帰すこと」。

私は昔、1960年に参加した第四次越冬で不幸な出来事を経験しました。ブリザードの中、犬たちに餌をやるために外へ出た私と福島紳君は帰路、遭難してしまったんです。強烈な風と雪に、手の先、足元も見えない状態でした。気がつくと福島君の姿がない。それっきり、その後どんなに探しても福島君は昭和基地に帰ってはきませんでした。私が助かったのは偶然です。彼の遺体が発見されたのは7年後、1968年2月でした。このとき私は越冬を終えてまさに帰国の途に就く寸前で、彼のお骨を背負って帰国することになりました。日本の南極観測隊唯一の犠牲者です。この事故がきっかけで、それまでライフロープがなかったんですが、ライフロープができ、ブリザードひどい時には隊長が外出禁止を命ずるなど、ルールができました。

Q4. 南極とはどんなところなのでしょうか?

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自然が圧倒的である、ということですね。
第二次で越冬できなかった時、40日間「宗谷(観測船)」が流されたんです。人間の力ではまったく何もできない。南極では自然の圧倒的な力を感じますね。けれども同時に、自然の素晴らしさも感じることができます。

一方、その中で人間が活動していく、という素晴らしさもある。直接自然にぶつかっていろんな仕事ができる、というのは、人間の素晴らしさのひとつだと感じますね。
“行き甲斐”がありますよ、南極は。

Q5. 一番寒むかった気温はどのくらいでしたか?また、一番暖かだった気温は?

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私が体験した一番の寒さはマイナス50度くらいですね。今は越冬していませんが、ドームふじ基地という場所で越冬した人の記録では、マイナス79.7度というのが最低気温。
一番高い気温の記録は昭和基地でプラス10度。これは多分1回だけです。夏の最高気温の平均は6〜7度程度です。

ちなみに昭和基地の最低気温記録はマイナス45度くらい。けれども最近ではマイナス40度以下となることはないようです。

一年越冬した人と、新しく来た人では、服装が全然違います。越冬を経験すると10度分くらい寒さに慣れます。南極に来たばかりの人が防寒具を着ていても、越冬経験者はシャツ一枚とかね。人間の適応力ですね。
船に戻って暖かい生活をすると、すぐ元に戻っちゃいますがね(笑)。 

Q6. 一般の人は昭和基地にいく方法はあるのでしょうか? また、許可が必要なのでしょうか?

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昭和基地

(写真:夏の昭和基地/
2001年9月撮影)
 

いままで観光客としての日本人が昭和基地に来たのは一度だけです。外国の船で南極大陸に来て、ヘリコプターで昭和基地まで来られました。
昭和基地近くの海岸は普通の船では近づけない。初代の「しらせ(砕氷艦)」でも25回の南極航海のうち、1回は接岸できなかった。その前の「ふじ」は18回南極に行き、6回しか接岸していない。遠くからヘリコプターで輸送してもらうしかない。ですから昭和基地に行こうと思ってもなかなか難しいですね。

ちなみに、「宗谷」は砕氷船というよりは耐氷船と呼んだほうがよく、第1次観測で、昭和基地建設が行われた地点から、直線距離で18kmのところまでしか近づけず、以後、宗谷最後の第6次観測まで、昭和基地から100km以上離れたところまでしか近づけず、第3次観測以降ヘリコプターによる輸送で基地を維持しました。

南極に行くには環境省への申請が必要です。基地への訪問についての許可は必要ありませんが、観測隊の人達の了解を得る必要はありましょう。

Q7. 南極での研究は、具体的にどのように将来につながっていくのでしょうか? また南極での成果は、私たちの生活や環境にどのように結びついているのでしょうか?

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基本的には「自然科学諸分野の調査」ですが、具体的な成果としては環境問題ですね。
3つあります。

ひとつは「地球システム」と言って地球全体を知るための研究ですが、「南極」が地球の中でどういう役割をしているのか。

昭和基地

(写真:冬の昭和基地/
2002年2月撮影)

もうひとつは、地球汚染についての研究です。南極は陸上において一番環境汚染の少ない所です。南極が汚染されている、ということは、ほかの場所はもっと汚染が進んでいるということなんです。具体的には、以前、有害物質である鉛などが大気中にチリとなって浮遊し、それが南極で雪面に落ちて、雪層中に堆積したのが発見されたのです。それもきっかけとなって加鉛ガソリンの使用が禁止になったんです。つまり南極の雪と氷の積層調査は、環境汚染を知る上での指標を与えるものでもあります。

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(写真:ロス海西岸ドライバレー/上:アサラシのミイラ)

最後にもうひとつ、反対に南極が他の地域にもたらす影響の調査です。南極の氷が融ける、その結果海面が上昇する、というのがその例ですね。

まさに地球全体はつながっているんです。特に南極と北極は、人間の世界から遠いけれども影響は大きいし、汚染を受ければ簡単には元には戻らないです。

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遠い将来、鉱物資源の問題が出てくるかもしれません。領土主権を主張する国もありますが、しかし1991年に採択された「環境保護に関する南極条約議定書」の中で、50年間手をつけてはならない、と決まっているんです。ですから南極は、国際協調の場としても非常に大切な所ですね。

(写真:ロス海西岸ドライバレー/新鉱物「南極石」)

Q8. 国境のない南極大陸として知られていますが、これからの南極はどのように変化していくと思いますか?

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先にも述べましたが、南極条約がある中で今後どうしていくか、ですね。経済的な開発はリスクが大きすぎるので一国ではできないですよね。国際協調の中でネゴシエーションしながら開発を進めていく、ということになるんでしょうね。でも、南極の開発は非常に難しい。仮に鉱物資源を掘るとしても、技術において相当なものを持っていなければなりません。資金面でも相当にリスキーです。ですから南極を掘るようになったら「世の中終わり」と(笑)。

Q9. 観光としても徐々に開かれてきましたが、南極では何を感じてもらいたい、と思っていますか? 観光客へのアドバイスをお願いします。

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自然の凄さと素晴らしさを体験してほしいですね。宇宙飛行士が宇宙から見た地球の感想を言っていますよね。そこまではいかないけれども、それに似た感慨を感じてもらえれば。

自然の凄さは、大陸(半島含む)だけじゃない、船からでも十分に感じることができます。氷の海は凄いですよ。

Q10. 最後に南極で働きたいと願っている人たちへ、一言お願いします。

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理学博士・吉田栄夫さん

自然科学は研究すればするほど、解らないことに出くわすんです。その中で南極では行くたびに新しいことが見つかったり、体験したりする。だから面白い。

昔、朝日新聞社で行ったアンケートで面白い結果があるんです。「あなたはもう一度南極に行きたいですか?」という質問に、越冬から帰って来たばかりの人たちは、それまでの辛かった経験を思い出して「行きたい、けれども条件がある」と答えたんですが、一年前に帰ってきた人たちでは無条件に「もう一度行きたい」と回答しています。
それほどに南極は特別な場所なんです。

※南極地図および南極の写真は、財団法人日本極地研究振興会よりご提供いただきました。

吉田さん、インタビューにお答えいただき、ありがとうございました。
意義のある素晴らしいお話でした!


吉田さんから南極旅行をおすすめするメッセージもいただきました。


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