知られざる地球の不思議さと手つかずの大自然を肌で感じる究極のエコツアー。地球の鼓動が聞こえる大地「南極」、
イヌイットの住民達、野生動物との出会いがある「北極」。何かを感じさせてくれる極地旅行。
個人旅行の旅だからこそ、他では味わえない感動が!

※本原稿は、日本南極観測隊・第一次越冬隊 菊池徹氏が生前に書いたものを、ご遺族の許可をいただき、掲載しています。文章・写真の転用は堅くお断り申し上げます。

 「タロ・ジロ」のことを映画にしたいという人が現れた

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 「テッちゃん(私の事)協力 してくれる?」
 東京・板橋の極地研究所・副所長の村山 雅美 さんからの電話だ。昭和56年<1981>の早春。

 私は早速VANCOUVER(カナダ バンクーバー)から東京に飛んだ。お逢いしたのは 映画監督の蔵原 惟繕(くらはら これよし)氏。先に「北きつね物語」を大ヒットさせた人だ。場所は文京区歌舞伎町のイキな黒塀の旅館・料理屋。女優の小暮美千代さんの妹さんの経営だそうだ。木暮美千代と言えば、かって南極から帰ったときに森繁久弥さん(北野中の先輩)が大阪で私の歓迎会を開いてくれた時に来てくれて、綺麗なハンカチにサインしてもらったことがある。不思議な縁だった。

 会談は順調に進んだ。私はともかく【全面協力】することを約した。だって、自分の事を映画にしてくれるなんて、普通は本人が死んだ後の話である。生存中にそんな話が出ることはメッタにあることではない。

 資金はどのくらい?

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 よく考えてみると段々「こりゃ大変な企画になる」という事が解ってきました。いったい幾らくらいの予算を想定するか?これは難しい。 

 蔵原さんは【20億円】と推定した。経験者の言うことだ。他に意見は無い。ともかくそれを目標に準備は進められた。 

 後日談になるが実際には【30億円】かかったという話を聞いたことがある。1956年の第一次南極観測隊は国家予算【10億円】と朝日新聞寄付【1億円】、国民の皆さんからのご寄付が【1億円】の合計【12億円】だった。

 それらの資金を集めなければならない。ところが蔵原さんは既に日本の3大映画会社に打診している。いずれも【否定的】返事だったと言う。「巨大すぎる」「余りにもリスクが大き過ぎる」というのだそうだ。資金の当ても無く ともかく【見切り発車】だ。蔵原さんの【太っ腹】にはシャッポである。

 

 蔵原さんは撮影を南極でやりたいと言い出した

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 冗談じゃない。そんな事をしたら お金がいくらあっても足りない。文部省が協力してくれるはずが無い。外国の基地だって余り良い顔はしないだろう。自分で【設営】をやるのは危険すぎる。 それは私がよく知っている。

 そのことに付いては私なりに考えがあった。【カナダの北極でやろう】というのだ。私はそれまでに、鉱山開発の仕事でカナダ極地を歩き回っていた。【土地感】は充分にある。

 北極でやりましょう

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 「北極でやりましょう、蔵原さん」。私は恐る恐る切り出した。案の定「北極で?」「南極の話を北極で?」と不思議な顔。私はコンコンと説いた。村山さんも【北極案】には賛成だった。南極を実際に知っている人なら当然のことだ。【南極では難しい】と。蔵原さんも段々【北極案】に傾いてきた。「よし、それで行こう」と結論が出るまでかなり時間がかかった。 

 私はとりあえずカナダに帰る。調査・準備することが驚くほど沢山あるのだ。

 その夏には 蔵原さん自身カナダに来ると言う。つまり「ロケハン」だ。ロケをする所を探し出し決定しなければならない。その他、資材の手配・犬の購入・ロケ現地との交渉と準備。おまけにカナダは映画産業保護のために、要員の過半数をカナダで採用しなければならない。これにはカナダの映画産業とのコンタクトが必要だ。政府関係も無視できない。これだけ大型作業となると各種の規制もクリアしなければならないのだ。 

 私はまだ鉱山開発コンサルタントの現役だった。これをほったらかしにも出来ない。1956年南極に旅立つ前の「忙殺」と同じくらい、私は忙しかった。

 日本の各テレビ会社と交渉

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 蔵原さんは日本の各テレビ会社と交渉した。どこも「テレビ会社は、既成の優良作品は喜んで放映させてもらいますが 映画製作は致しません」という中で、【フジテレビ】鹿内春雄社長だけが【興味】を示してくれた。 

 とはいえ事はそう簡単に進まない。しびれを切らせた蔵原監督が、その苦情を私にうちあけた。私だって映画の社会は知らないし、第一20億円は大きすぎる。私は最後の切り札を出すことにした。

 アメリカの【ピューリナ】と云う食品会社

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 ピューリナは、特にドッグフードでは世界的に有名。 実はその当時、私の実弟 菊池 三郎が日本での日米合弁会社・フジピユーリナ株式会社の雇われ 社長をしていた。不二製油株式会社で造った大豆蛋白をアメリカのピユーリナでドッグフードに造って売っているのだ。 

 1978年・植村直己が北極点単独旅行の時、このアメリカのピユーリナに頼んで、かなりのドッグフードを寄付してもらい、北極点近くの海氷上で、その商標の入った箱を見せて植村君が撮った写真を提供したことを思い出した。勿論 植村遠征隊の後援社・電通を通じて総て執り行われたのだが、もともとは実弟 三郎が口利きをしたのだ。

 と言うわけで今回も一応、三郎に口を聞いてもらった。余り当てにしていなかった。ところが、思いもかけずピユーリナの社長が「お話を伺いましょう」との事だ。喜び勇んで蔵原監督がバンクバーにやってきた。私は早速、セントルイスのピユーリナの社長に会見の予約を設定すべく電話をいれた。

【フジテレビ】から電話が飛び込んだ

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 その返事を待っているとき、【フジテレビ】から電話が飛び込んだ。「アメリカが出すんだったら フジテレビが資金を出す」というのだ。 

 いかにも日本的ではあるが、蔵原さんは大喜び。私は淡々とその事実を述べ、ピユーリナにおわびした。先方は好意的に了承してくれた。一件落着。 

 ついでに述べておきたいことがある。フジテレビが出すということになったら、東京の【小学館】と云う児童図書出版会社が「我社も協力したい」と言うことになって、この時点で【20億円】の目安がついた。蔵原さん「おめでとう」。    

北極を歩いて来よう

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 一刻も無駄に出来ない。「北極を歩いて来よう」ということになった。

 ここで詳しい旅行記を書くことはしないが、北極圏各地で映画撮影の出来そうな場所を選んで、その総てに私が蔵原惟膳監督と弟の蔵原惟ニさんを案内した。昭和56年(1981)7-8月の事だった。旅行期間は2ヶ月くらいだったと思う。とても楽しい旅だった。

(右写真/Yellowknife Airport. 歩くは監督・蔵原惟繕氏)

 私たちは Yellowknife・Grise Fiord・Camblidge Bay・Coppermine・Resolute などの周辺をくまなく探した。その結果、蔵原さんは最終的に【北極で本格的な映画撮影が出きる場所は Resolute(リゾリュート)】と結論付けた。

 その理由は、

  1. そこは カナダ北極圏最北の定期便飛行場のあるところ。 飛行場が大きく Yellowknife から "Jambo Jet" が飛んでくるので 資材の搬入に利。 監督・カメラ・大道具・小道具・音響・など必要なスタッフと俳優などと 必要な資材である。
  2. 極地用小型機やヘリコプターの借り上げが容易でる。
  3. 住民多く労働力が期待できる。
  4. 民宿風宿泊設備がある。 通称「ベーゼル・ハウス」など。

 

 レゾリュート

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 これに関しては本論各場所で書いてゆくことになるだろうが、その概要をここに記しておこう。

 村の名前は有名なフランクリン探検隊の船の名前からとったとの事。撮影当時の人口は140人くらい。飛行場は戦争中に日本攻撃のため、アメリカとカナダが共同で開発したものであるが 現在は北極圏の航空交通の要地となっている。 

 大きい産業はないが その大半が飛行場・飛行機会社・北極地域開発事業関係・学術研究関係・極地ハンティング・フィシング案内・宿泊設備・学校・郵便局などが活動している。(右写真/レゾリュートの飛行場にて)

 ベーセル氏とベーゼル・ハウス

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 【ベーゼル】に付いて書いて置かねばならない。
 フルネームはMr.Bazal Jesudason。Mrs.はTerryさん。彼の出身はインドだと言う話。オランダの大学で土木工学を学び、その後カナダに単身移住。カナダ政府の技官として採用され、北極圏のGrise Fiordの飛行場建設担当を拝命任地に赴任する。1970年始頃、そこで単身旅行中のバンクーバーで学校の先生をしていたテリーさんと運命の出会いをする。二人は気が合って結婚。Basalの任期終了後二人は レゾルートに落ち着き新婚生活を始める。 

 ベーゼルさんの話だと家一件一ドルで売っていたそうだ。そのわけは戦時中に急遽飛行場を作ることになった時 現地の住民だけでは労働力が不足なので 近隣の部落から集まってもらった時の住宅だそう。その後住む人がいないので政府は一軒一ドルで売りに出していたと言うのだ。

 植村直己が Basal氏に逢ったのは1975年の4月、Grise Fiordであった。彼の著書「北極圏一万二千キロ」の一節<p.128>をご紹介しよう。

 乱氷をぬけ、部落の前に橇を停めると、家々からエスキモーたちがいっせいに飛びだしてきた。
 「グッダー」「グッダー」。みんなと握手をかわす。顔はグリー-ンランドのエスキモーとおなじだが、衣裳が違う。すそに刺繍の入ったパーカを着ており、そのパー力のフードのてっぺんが尖っている。
 アザラシの靴にも鮮かな赤や青の刺繍が入っている。犬橇は見当らず、そのかわりにスノースクーターが見られる。私と目が合うと、皆ニッコリと笑い返してくれる。これがカナダ・エスキモーの挨拶なのかと思い、私もできるだけ皆に笑顔を返した。とうとうカナダ・エスキモーに会えたのだ。
 その中から驚いたことに 一人のインド人が現われ、私を家に招いてくれた。カナダ政府の技師としてこの村に働くベーゼル氏で、夫人はカナダ人のテリーさんだった。
温かい家の中で防寒具を脱ぎ、湯気のたっている食事をさせてもらい、咋年の暮以来一度も洗ったことのない体にシャワーを浴びた。
 といって、ここまで苦労をともにしてきた犬たちのことを私は忘れていたわけではない。ベーゼル氏が「犬のことは任せろ」と私にいい、エスキモーに犬の餌の手配を命じてくれたのだ。
 早速エスキモーのビルミニがスノースクーターでセイウチの凍肉を運んできて、小さく切り刻んで腹いっぱい犬たちに食べさせてくれた。グリーンランドでも受けたことのない歓待だった。

 

 「ベーゼル・ハウス」、正式には High Arctic International Explorer House はその後 、植村直己、日大隊、泉雅子隊などの北極点遠征隊をはじめ、多くの日本人による探検隊や学術調査隊が次々とベーゼルとテリーさんのお世話になる。彼らは 正に日本人の北極事業の影の協力者なのです。 

 蔵原監督が映画撮影の場所をレゾリュートと決めた最大の理由の一つは、この「ベーゼル・ハウス」の利用だった。そこで早速設営準備。何しろ北極圏で本格的映画のロケをやろうと言うのだから大変だ。アメリカ映画ですらやった事がない。

 

 カナディアン・ロッキーを訪れた

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 蔵原監督と実弟・蔵原惟ニ氏と私とで カナディアン・ロッキーを訪れたのはこの北極調査の帰路だった。

 私は日本からの来客をこのカナディアン・ロッキーに案内するのがとても好きだ。それは素晴らしい山並み風景で日本の山の風景に比べて、規模がトテモ大きい。ハイウエイから眺めながら、アチラこちらの湖の眺望の良いところで車を止めて、旅行を楽しむわけである。蔵原兄弟も大喜びだった。

 このドライブ旅行中に不注意でちょっとした事故があった。ある湖畔の展望台で車のキー束を後部トランクに落とし入れたままトランクを閉めてしまった。レンタカーなのでキーは一個しかない。仕方ないと後部座席を取り外し、トランクの中が見える狭い隙間から一本の棒を差し入れて上手にキーを吊り上げてくれたのは惟ニさんだった。

 

 北極ロケ、1982年春、開始

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 早速ベーゼルハウスの拡大工事が始まった。資材は総てカルガリーから空輸。大工はベーゼル氏一人とあと数人の現地のヘルパー。幸いベテランの貝山知弘プロデユサーが来てテキパキと手配が進む。

 蔵原監督以下撮影関係およそ20名。その他、英語担当に植田茂氏、極地行動支援係に五月女次男氏が配置された。犬が集められた。

 大道具係りは、昭和基地に私たちが建てた建物と概観が良く似たセットの建設を北極圏でやってのけた。勿論片側だけだがトテモ良く出来ていて私に昭和基地を思い出させるに充部なできだった。

 飛行機は昭和基地に飛んできたカナディアンビーバー機と全く同じものを発見。色を塗り替えて、日の丸を描いて、『昭和号』と描いて利用した。雪上車は現地に合った本物と似たような物を見つけて借用。犬の引く【そり】は私の考案した籐製だ。その他の小道具もドンドン運び込まれた。 

 

 1982年3月頃、本格的撮影が始まった

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 高倉健、渡瀬恒彦など俳優の現地入りは10月か11月だったと記憶している。私は犬たちの訓練と犬そり技術の指導のため現地に釘付けになった。

 所用のためバンクーバーに帰っていた私に、現地の蔵原監督から電話があった。「【犬が魚を食べているシーン】を撮るので、バンクーバーの魚屋で撮影用の魚を買ってきてくれ」と言うのだ。 

 これには私は困惑した。「どんな魚?」と聞き返すと、「南極で私が見たような魚を」と言う返事。本当は私は、南極現地では犬に魚を与えた事は無いし、第一氷のクラックに魚が飛び出してくるはずが無いのである。でも私は一箱の魚をバンクーバーで買い入れレゾリュートへ持っていった。

 これはその魚を犬に食べさせるシーンの撮影を見学した時の話。犬は臭いをかいただけで顔をそむけた。2度3度試みたが全部NG。そこで考え出されたのが、犬を4-5日絶食させ空腹状態にして、今度は魚にバターを塗って試してみる。犬はしばらく臭いをかいでいたが、パクリと食いついた。そしてすかさず吐き出したのである。それでも監督はOKを出したのを思い出す。

 

 高倉健は無口な人だった

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 高倉健と渡瀬恒彦の競演は素晴らしかった。

 あるシーンの撮影で監督が一応OKを出しておきながら、「撮影中に犬の遠吠えが聞こえたので声だけやり直し」と言うのだ。高倉健と渡瀬恒彦が向かい合ってカメラは休み。マイクだけが2人の上につるされた。とたんに2人の役者はしゃべり出したのだ。先ほどの撮影中と全く同じせりふを。

 私はこれには驚いた。「すごい」と関心したのだ。さすが超一流の俳優。ホトホト自分の無能さにあきれた。

 

 ブリザードのシーンを撮影

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 ブリザードの吹きまくる真冬の朝、【極地サポート係】の五月女次男やベーゼルの引き止める中、監督は撮影に出かけると言うのだ。危険極まりない。差し出した自分の手の先が見えない程のブリザードも吹いている。

 監督の言うのに「このブリザードのシーンを撮りたいのだ」と。

 監督がそんなに前向きなので、私たちは【命綱】と【赤旗】を駆使し、撮影現場に向かった。幸いなことにブリザードは段々収まり【危険】から一応脱出した。

 

 北極圏撮影、終了

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 1983年の2月には北極圏撮影が終了。日本への帰国途中、蔵原監督の一行がバンクーバーに立ち寄った。大勢のお客様だったが私にとっては大歓迎。市内市外の観光や我が家でパーティをしたり、一日ビクトリア観光に付き合ったり。大いに楽しんだ。

 その後、日本に於ける撮影には、私は全く関係しなかった。

 

 1983年7月『南極物語』上映

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 東宝系で上映されたときにはロードシヨーに招待され、私は喜び勇んで東京へ飛んだ。

 その時、越冬で犬そり担当を一緒にやった北村泰一君(当時九州大学教授)と久しぶりに会って旧交を改め、二人でニュースに出たりした。

 映画封切は日比谷東宝だったと記憶している。私は感動の連続で見たものだ。とても満足でした。

 ところが 一つだけ困惑したことがあった。それは、隊員の名前が本当の名前ではなく架空の名前に切り替えられていることが、上映されて解ったのである。

 例えば私・菊池隊員が潮田隊員(高倉健)に 北村隊員が越智隊員(渡瀬恒彦)に、また西堀越冬隊長は小沢越冬隊長(岡田栄次)と変えてあるのだ。監督は何時も私に「出きるだけ事実に忠実に」と希望をもらしていたのに。

 タロ・ジロを初めそり犬の名前、昭和基地、宗谷、文部省、学術会議、国際地球観測年を初め年月日など、総て事実どうりなのだ。ただ隊員の名前だけが変えてある。

 さすがの西堀さんも「これは一体如何したことじゃ?」と。ある小学校の先生のグループが「これでは史実を誤って伝えることになる。正式コメントが必要だ」と文部省に申し出たとも聞いた。 

 聞くところによると【肖像権】関係の配慮からだと言う。生きている人の名前をそのまま使って【金儲け】に利用すると、名前を使われた人は【肖像権】と言うのがあるのだそうだ。つまりお金を要求することが出来るのだという。私達は【考えもしなかった事】が考えられていたのだった。

 この件は その後そのままになっている。何らかの機会に極地研究所かフジテレビが正式にコメントを発表して、後世への正しい歴史を伝える義務があると思います。

<終>

菊池徹氏プロフィール

北海道大学理学部地質学鉱物学科卒業。東北大学理学博士号授与。

通産省地質調査所勤務中、南極第一次越冬隊員となり、地質学及び「タロ」「ジロ」たちの犬ぞり担当。北極地域鉱山の調査開発事業に長い年月をつくす。

映画「南極物語」高倉健のモデルとして有名。

昭和41年(1968年)にカナダに移住、2006年4月10日バンクーバーにて永眠。 


次回より、菊池徹氏の手記『タロ・ジロにまつわる話』を連載いたします。尚、本原稿を掲載するにあたり、徹氏の実弟 菊池三郎氏より、お手紙とインタビューをいただきました。

 ◎菊池三郎氏インタビュー『兄、菊池徹の思い出』 &お手紙

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注)すべてのコースは、海外主催会社が催行する旅行ツアーとなります。お申込みにあたり、自己責任の上でのご参加となりますことご承知おきください。