知られざる地球の不思議さと手つかずの大自然を肌で感じる究極のエコツアー。地球の鼓動が聞こえる大地「南極」、
イヌイットの住民達、野生動物との出会いがある「北極」。何かを感じさせてくれる極地旅行。
個人旅行の旅だからこそ、他では味わえない感動が!

ヒラリー柴田の「白瀬矗 南極記」英文翻訳物語:第1回

ここに掲載する文章は、ヒラリー柴田氏からいただいた英語の原稿を弊社にて和訳したものです。

はじめに

ロアール・アムンセンは、1911年12月に地理学上の南極点に到達した最初の人物として知られています。ロバート・ファルコン・スコットは、1912年1月に極点に到達した後、4人の仲間とともに基地に戻る途中で死亡し、伝説となりました。しかし、アムンセンやスコットと同じようにロス棚氷を横断した3番目の南極探検隊は、日本以外ではほとんど知られていません。

南極探検のニュースは1910年7月に東京で発表され、多くの人々の関心を集めました。大隈重信伯爵は政界の長老であり、非常に人気のある人物で、南極探検隊後援会の公式な後援者となりました。

最初の航海

1910年11月末までに、探検隊は出航の準備を整えました。探検隊は、1人か2人が手を振って別れを惜しんだだけで、東京湾からそっと出航して行ったと言われていますが、実際はそうではありませんでした。バンド演奏、スピーチ、旗、そして航海の成功を祈る約5万人の群衆による盛大な見送りがありました。

彼らの船「開南丸」(大約すると「南極の開拓者」)は、南極探検のために氷上用に強化され、18馬力のエンジンを搭載した204トンの木造スクーナーでした。アムンセンのフラム号やスコットのディスカバリー号の約半分の大きさで、スコットのテラ・ノヴァ号と比べるとまったく小さいものでした。船長は野村直吉で、探検隊員の乗組員は27名でした。この中にはアイヌ犬担当の山辺と花守が含まれており、彼らは樺太から30頭の橇用犬を連れてきました。南方への長い航海の間、彼らは甲板で相撲をとって体を鍛え、将棋で知性を伸ばし、尺八で五感を楽しみました。しかし、犬たちは次々と病気にかかり、死んでしまいました。1911年2月8日、ニュージーランドのウェリントンに到着したときには、30頭いた犬たちは12頭になっていました。これは深刻な挫折でありましたが、彼らは南極大陸に到達するか、それとも死ぬかを誓い、2月11日にウェリントンを出航したのでした。

2月17日に最初のペンギンを捕まえ、2月28日に最初の氷山を見たのです。そしてついに3月6日に南極大陸を目にしたのでした。白い大陸を初めて見たときの彼らの反応はとても感動的でした。夕日が南極の山々を照らす光景は、見る者を驚嘆させました。楽園の話は誰でも絵本で読むことができますが、今、私たちの目の前には、不死人の住処に匹敵する美しさが広がっているのです。

ビクトリアランド沿岸を南下し続けましたが、氷を突き破る道を見つけるのはますます難しくなっていました。3月12日正午、南緯74度16分、野村船長は引き返すことを決断しました。上陸に失敗したことは非常に残念でしたが、3月12日には南極の秋がかなり深まっていたことを忘れてはなりません。スコットは2月12日までにマクマード海峡を離れるのが賢明であるとコメントしていたし、シャクルトンは1909年3月9日にアデア岬北西の地域で、より頑丈でエンジン容量の大きいニムロッド号に乗って氷塊から脱出したばかりでありました。

シドニーでの越冬

当初の計画では、探検隊員をキング・エドワード7世ランドに残して、野村船長が開南丸で冬を越すことになっていました。彼らはシドニーに向かい、パースレイ・ベイ郊外のキャンプ地に南極越冬用の木造小屋を建てました。当初、オーストラリア人たちは不審に思ったのですが、エッジワース・デイビッド教授は彼らを本物の探検家として擁護し、シャクルトンのニムロッド探検隊での経験を伝えたのです。

野村船長は日本に戻り、南極上陸再挑戦のための資金確保に尽力しました。船はシドニーの造船所で改装され、最初の航海で死んだ犬の代わりにサハリンから30頭の犬が連れてこられました。

第2回に続く

コース紹介


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